昭和56年11日14日 朝の御理解



 御理解 第7節
 「天地金ノ神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやらことなし。はやることなければ終わりもなし。てんち日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」

 御理解三節ですかね「氏子ありての神 神ありての氏子」と言う所があります。氏子ありての神と。いかに天地の親神様は人間氏子に、信心しておかげを受けてくれよと言う事を願っておられるかと言う亊を実感致します。「神様があっての氏子だ」と言うふうには仰ってはいない。人間氏子あっての神なのだと言う、その人間氏子におかげを受けて、あいよかけよで立ち行こうと天地はなさっておられる。その手立てが、経のここの御理解だと思うんですよね。
 いわゆる天地日月の心になる亊肝要だとこう言う。天地は流行る事もなければ終わりもない。と言う程しにその永劫助かっていける、いうならば手立てと言うのは、どうしても私共が天地日月の心にならせて頂こうとする精進がいるわけで、金光教の御信心はこれに尽きると言うても私はよいと思う位です。ね、そこから教祖が仰る天地書付にある「和賀心」和らぎ、賀ぶ心も自と出けてくるしね、段々おかげを頂いて、我情もとれ我欲もいつの間にかとれて、我が身は神徳の中に生かされてある。
 我ながら我が拝めれるような。この調子この調子と言うかね、この生き方を身につけていきさえいけばあの世もね、例えあの世がよし暗黒と言われても、この心の光をもって行けばと言う安心の心も開けてこようと言うものであります。ね、ですからどうでもその天地日月の心と言うものの体得ですね。それを私共は長年の信心を頂いとりましたけれども、これをここん所を、そのように大切なものと説いて来なかったように思うんですね。金光教過去百年の金光教は、ね。
 もう問題はここを徹していけばわたしは他のみ教えのすべても生き生きとして来るし、又他のみ教えも有り難く行じていける亊になると思うんですよね。所が合楽では天の頃とは、地の心とはと勿論人間が言うならば、この世で生神を目指す亊の出けれると言う意味においての天地なんです。ね。我が心が神に向得ていく亊の出けれる手立てなんです。それが言うならば天の心、地の心、日月の心と言う、そういう精進をさせて頂きますとね、そうした和賀心も生まれてくる。
 しかもその和賀心にはおかげがあると仰せられる。これはまあ自分がおかげを頂いておる一つの実証ですから、こんなに嬉しい亊はない。こんな有り難い亊はない、ね。いうなら心一つですべてを創ると合楽で言われる、その心一つが天地日月の心にならせて頂こうと日々のなかに精進して行く中から、自分の心の中がそれこそ、一年一年有り難うなって行くのであり、信心をさせて頂けば年を取る程位がつくものじゃと仰せられるような。ははあ、これが神格と言うものであろうか。
 位と言うものであろうかと思わせて頂けるような日々、ですから信心がとにかく楽しうなってくる。有り難うなってくる。そして日々をまあリズミカルな生き方と言うのが出けてくる。まあ、これはまあ合楽理念をもってすると、今私が申しました様なところを皆さんが一生懸命、精進しておられるのですけれども、私は御理解三節にある「氏子ありての神」とこう言うてある。
 もうあのう上滝総一郎君が頂いた教えじゃないですけれども、ね。それこそ生きとし生ける者一切、天地の御恩恵に浴せんでよいと言うものは一つもない。皆、御恩恵に浴するんだけれども、ね。そのどういう他の人間以外の動植物におかげを下さろうとしても、又おかげは頂いておりますからね。けれどもその御神徳を下さろうとする亊は出けないし、受ける亊もできない。神様がねやっぱり「氏子ありての神」と仰っている。もう氏子あって、神も助かるんだと。
 氏子が徳を受けてくれればね、いわゆる神様が助かって下さるんだ。そこで「氏子ありの神」とおおせられる神様のお心を、いわば天地日月の心から分からせてもろうて、神様いうならば、神様あっての私共と言う亊にならなければ。あいよかけよにならないと思うんですよね。神様が氏子あっての神とおおせられるのですから、私共も神様あっての私共ですと言うところなんです。これは人間と神様だけにしか交わされない心であり、交流の世界なんです。ね、
 もうとにかく、私はここの所の神様の、人間氏子にかけられる願いと言うものを私共が分からせて頂く時にですね。どうでもたとえそれが難しいかっても、天地日月の心にならせて下さいと言う願いを持たなけばならない。そしてなら、今合楽で言われとります、その心と言うものがです、合楽理念に基づけば、ならその気になれば、誰でもが頂けるもんだと云うのですからね。
 昨日は十三日会で大変盛会で、あのようにおかげを蒙りましたが、皆さんが発表をなさる、五人のかた達が発表なさる中に、臼杵の志賀さんが発表しておられました。臼杵の志賀さん一家と云うのは、大変熱心に昔から金光様の御信心を頂いておられるお家だったらしいですけれども、その昨日発表しとられました誉さんと云うんです。ね、は、若い時からキリスト教の信奉者で、いわゆるクリスチャンなんです。そして金光教なんか程度が低いと言う亊で決めつけてしまって、全然相手にしなかったんです。
 所が人間の知恵やら力じゃどうにも出けない問題を抱え込む亊になって、それば行く道を教えてもらうところがあるなら一緒にまいろうかというて、姉さん御主人一家で皆、参ってみえたのが初めてだったと思いますけれども、もうそん時でも、何というですか、もう金光教は程度が低いとこう見下げたような言い方をする人でした。まあそのへんの顛末をだんだん、金光教の信心に、しかもそれが合楽理念に基づいての生き方を身につけていけるようになった。
 その過程をまあ、話しておられたと思うんですけれども。それを聞かせて頂いとりましたら、いわゆるキリスト教の教えの亊なんかでも触れておられました。そん時に私がいただきましたのは“見果てぬ夢”と言う亊を頂いたんです、ね。だからこれはね、例えばこれはキリスト教だけの亊じゃないでしょうけれども。昨日のお話の中にも、私はああいう話は初めて聞きましたけれども、キリスト教はもう、一生を自分の罪の償いの為に、一生を過ごすと言う亊が建て前らしいですね。
 人間というものは生まれた時すでに、罪を持って来とる。その罪をなくする為に一生の修行。成程それじゃ一生が十字架を背負うた一生と言う亊になるんだなあと、ね。だからこの世で出来るだけ罪の償いをさせてもろうて、あの世では天国に召されるというか、天国におかげを頂くというのがまあ、教えの芯らしいですよね。昨日も皆さん聞かれた方はご存じでしょう、そこん所を話ておられました。ですからこんなに成程、見果てぬ夢だというふうに思いますですね。
 人間は何かそこに助かりたい、藁をも掴むと言うような、その心がですとにかく、この世ではもう罪の償いの為に、だからもう人間らしい生き方なんどはもう、大体キリスト教の教えでまいりますと、大変な罪をつくる亊になるんですね、キリスト教で。お酒さえ飲む亊は出けない。まあだ難しいすばらしい、そしてそれを罪の償いとしていくと言うのですからね。けれどもまあ人間が死ぬる亊はもう絶対ですから、死んだ先天国に行く亊の為に、それこそ見果てぬ夢を追いながら。
 一生を罪の償いの為に十字架を背負うて生きて行くと言う生き方を、から合楽に御縁を頂いて合楽理念に基づく所のね、日々自分の心の中に生神を感じていけれる生き方。我が心が神に向うて行く。一分でも一厘ずつでも神に向うていく。それが自分の心で感じられる。しも感じるその心にはおかげが実証されてくる。こんなに間違いのない教えはない。心がだんだんおかげを頂くに従って、この心の状態があの世までも続くのだと言う亊になりますから、いうなら見果てぬと言うものではなくて。
 それこそ確信をもってあの世行きが出来ると言うような心の状態も開けてくると言う亊になります。ですからどうでもね、私共いわゆる合楽に御縁を頂いている者の唱え言葉のように言う、それこそ天地日月の心と言うものを、本気でお互いの家業の中にね、頂いていく手立てと言うものを、日月の心をもって、所謂る実意丁寧な心をもって、それに取り組ませて頂かなければね。いうなら天地日月の心になっていくというのですから、天地の心と一つになっていけれる。
 いわゆる天地一如の世界という世界に一歩一歩近づいていけれる、ね。私共がいうならば天地人一如の世界というものが、自分の心に開けてきたらどう言う亊になるでしょうか。ここにある、流行る事もなければ終わりもないと言う程しのおかげに繋がるでしょう。天地は流行る亊もなければ終わりもない。なら私共が永劫助かっていける道というものを、ならこの世で頂いておかなければと言う亊になるしょう。ね、勿論この魂の向上と言うものは、ならあの世へ行っても限りない精進をしていく亊が出ける。
 しかも限りないもの、ね。終わりもなければ、ね。流行る亊もなければ終わりもないと仰せられるような。そういう心の状態を自分の心の中に頂いていく為には、天地日月の心というものが、これにだんだん出けて来なければならん。ね、出来てしまわなければじゃなくて、もうそれに向かって進んでいくという。言うならば構えを作っていく。そしてこれは私共がこの世でまあ、五十年か百年の寿命と致しましてね、そこんところの基本が出けておりますから。
 その心魂は限りなくあの世で終わりもなければ、流行る亊もない心の状態がね、天地と共に極まりなく、永劫助かっていけれる手立てと言う亊にもなる。そういう意味でここを頂きますと、これは大変なやっぱり御理解だなあと思うです。これはもうならキリスト教だけじゃありません。他の宗教の全てがね、ならここまで徹底して説かれたり、教えられたりしておる所はなかったけれども、そういう教えを私共が本気で金光様の御信心はね、おかげさえ頂けばよいのじゃなくて。
 そういう教えを身につけていこうとする手立てをね、説いてくれる人がなかったように思うんです。天地日月の心になる亊肝要だとだけは聞いてきたけれども、そんなら天の心とは、地の心とはそのならその手立てというものも、例えばね難行苦行してからそうなるのじゃない。人間が人間らしゅう生きながら。昨日私テレビを見よったら、なにかあれは与謝野なんか、という女の歌人が、あの歌人の歌だったと思うんですけれども。「柔肌の熱き血潮に触れもみで 寂しからずや道を説く君」という。
 あのう道を説く人に道を説く人と言う亊で最後はしぼってありましたが。言うならまあキリスト教の牧師というてもいいでしょうね。ならこりゃ金光様の先生というてもいいでしょうけれども、その道を説く人は女のやわ肌にも、触れる亊は出けんのかという意味の歌が、昨日テレビでちらっと見たんですよ。それが信心のように思うてきたんです。そうじゃないんです。金光様の御信心はここん所にですね。
 過去の宗教者がいうて来た、精進という亊やらの言葉がですね。家業の行そのものが精進であって、心一つでそれを極めていこうとするのが、金光教の教祖が教えられる精進であって、人間が人間らしゅう生きながらの、いうならば、生神への精進であり道を説いて下さってあるのが、金光教祖のみ教えなんですね。そういう例えばなら、厳しい亊が信心の行のように思うておった。
 もしそれを犯しどもしたら、もうそれは破戒とさえ言われてきた。宗教人いうならお坊さんでいうならば破戒僧として世に受けられない。ね、もう地獄に落ちると言う様な教え方をまあして来たのであります。金光教はそうじゃないです。天地日月の心の中には、ね先達てから、あのう渕上先生の子供出産の時に、お名前に五徳(いつのり)と言う亊を頂いた。五つの徳というのである。だからそれを早速先生が字引でひてみたら、五と言う字が合楽理念にぴったりしとるのには驚いたと言っている。
 この一の字をこう上、下にこう書く。これが天地だと言う。そして中に×の字を書く。これが五の字の語源だそうですね。天地陰陽交流の姿と言うのです。ね、合楽で説かれる合楽の世界なんです。そこから生みなされてくる、言うならばお徳でありそれこそ五徳。人間の幸福の条件の全てが足ろうてくるおかげを受けられる。陰陽合体の中から生みなされてくる所のおかげを、金光教祖は「氏子信心しておかげを受けてくれよ。氏子あっての神なんだ」と言うように切実にまあ、呼びかけておられるのです。
 そこでなら私共もやっぱり、ここん所を分かって体得していく亊になると、どういう亊になるかというと「神様あなたあっての私。」と言う事になるのです。神様は「氏子あっての神。」とこう仰る。そすと私共はおかげを頂いて、段々お徳を頂いて行くと、どう言う亊になるかと言うと、もうとにかく「あなたあっての私」、もう神様が抜きにしては生きていかれない世界ね。その世界と言うのは、いばらの道でもなからなければ火の行、水の行の世界でもない。
 人間が人間らしゅう生きながら、天地日月の心を体得していけれる道が、私はお道の信心だと思うです。だからそういう見やすいとか誰でもとか、本当にその気になれば楽しう愉快に行じていけれるというても、なら稽古をしょうと言う気にならなければ駄目だ、て。先達て筑豊支部の時話させて頂いた様に、もう部屋部屋に見事な花が活けてあった。小さい花ですけれども恐らくは何々流の、何々先生と言う方が活けられたんだろうと、私は思わせて頂いたんですけれども。
 その先生達が何人かで受け持ってされたんだそうですが、そりゃあもう見事な花でした。私どん分からん者でも感じるようなお花でした。花一本の使い方でも、稽古した上にも稽古しなければ活け上げる亊が出けない。自分の心一つでと言われるけれども、なら悪こつせにゃよかたいと言う様なもんじゃなくて、その心を自由自在にです、使いこなせる。もう誰が見とっても、見とれるような心の状態。我ながら拝みたいような心の状態に育っていくと言う亊。
 だからそれに取り組んで稽古しなければ、いつまで経っても同じだ、て。取り組むと、言うなら自分ながらもぎこちないながらも、こう活け上げる亊が段々出けるようになって、それがすんなりと心を活かす亊が出ける、手立てが身についてくるのですから、それこそ楽しうして有り難うして、しもそれには五徳が伴うて来て、人間の幸の条件のすべてが足ろうて来て、しかもこの心の状態でいくなら。
 いつお国替えのおかげ頂いても、いわば安心。喜びの心安心の心をもってあの世行きも出けようと言う程しに。素晴らしいお道の信心をですよね、頂いておったり聞いておったりしとるだけではなくて、本当にそういう手立てをね、手立てとしての日常生活を。「信心はせんでもおかげをやってある」と最後に結んでおられますけれども、ね。信心をして、ただ今私が申しましたような所を分らんと。
 「信心はせんでもおかげはやってある」と言う、そのおかげが分らんのです。信心のない者にそれを言うても。「そりゃぁあんた、私だけじゃなか。誰でも」と言う様なふうで、もう感謝もなからなければ、喜びもない。誰にでもやってあると言うそのおかげが、おかげと分からせて頂ける為にもね、私共はいよいよ天地日月の心を修していかなければならない。身につけていかなければならないと言う亊になります。
   どうぞ。
 この御理解を頂いて御神前でお礼をさせてもらいよりましたら、榊と言う字のね木へんに神と言う字が書いてあるでしょうね。木は心と言うでしょう。木へんに神と書いてある。これすなわち生神の表現ですよね。それにね木へんに点がいっちょ、楷書で書いてあるんです。その点が一つ欠けておる所を頂いたんです。はあいたこりゃ私のろう亊だろうと、私も生神を目指して頂いとるけれども、まあいっちょどこか足らん所があるなあと、まあ、それで本当に、その足りないもう一つの点を頂いた時に。
 私は本当に天地日月の心。いや、天地人一如の世界に住む亊が出けれるだろう。そりけんと言うて、簡単に神様がそりゃあここぞと教えて下さらない。ね、そこに私は精進があるんです。ね、教えてもらうだけではないです。自分でそこからいわゆる悟っていくと言うか、ね。仕事が仕事を教えていくように、信心が信心を教えていく世界がね、それから先あるんです。これから大きくなる豊かになる。こりゃ又限りがないです。榊の木を目指してのお互い金光教の信心は信心なんですからね。
   どうぞ。